「野鳥あれこれ」 第4話 (光と鳥)

                               百瀬 淳子

まもなくフィンランドに行きます。3度目の滞在になりますが今回は短く、5月半ばから6月末までの一ヶ月あまりです。

6月、フィンランドはよい季節を迎えます。ずいぶん昔ですが、米ミュージカル映画『回転木馬』を見て、「六月はいっせいに花開く」という主題歌の一つが気に入りました。

でも、6月に花が咲くという言葉になじめなく、4月ではないかというのが日本しか知らない当時の私の感覚だったのです。それが分かったのは、それからずっと後にフィンランド、つまりヨーロッパに住んだときでした。

6月、色とりどりの野の花が野山にも、水辺にも、都市の道路脇にさえいっせいに咲きます。花は8月まで絶えることなく、いつまでも輝く陽光の下で咲き続けます。北国の夏の長い一日は、短い花の季節を埋め合わせているのでしょう。高い山のない国土では空が果てしなく広がり、その下に森と湖の静寂なたたずまいがあって美しい風景です。

でも私は、彼の地の「光」が、風景をいっそう美しくさせているのだと思うのです。北欧の夏の光は透明という表現がふさわしく、いつまでも明るい白夜の国は清澄な空気に包まれています。

かつて、その「光」について書いたエッセイがありますので、ここに載せます。



「光と鳥」

『白夜の国の野鳥たち-フィンランドを歩いた日々』という本を書いた。なぜこの本を書く気になったのだろうと、いま思い返している。

最初はそんな気はなかった。望遠カメラを持っていったのは、向こうの野鳥の姿を日本の仲間に見せたいと思ったからで、本に載せるためではなかった。

私はぼんやりとフィンランドの景色を思い浮かべた。

「あの夏の光のせいだ」

心の中でつぶやいた。

五月。野鳥をたずねて近所の森を歩いていた。白樺の木にもたれ本を読む老婦人を見た。白いブラウス、そばに立てかけてある自転車、その上に斜めにさし入るように光る夕方の太陽。匂い立つ緑の森にとけこむ絵画のような光景に、思わず前を通りながら、

「美しい夏の夕べですこと」

と声をかけずにはいられない。

「本当に」

その女(ひと)の顔が透きとおった北欧の光の中でほほえんでいた。

六月。シシウドの花が咲きほこり、道端に白い垣根を作る。

 道の真ん中にカラスの子が座っていた。まだ飛ぶことも歩くこともできない。そのそばに四角いパンが置いてあって、おかしみを誘う。カラスの子はパンには見向きもせずに時々大きな口をあけて啼き、真っ赤な口の中をのぞかせる。

後ろをふり返ると上の電線に親がいた。黙然と親ガラスは巣から落ちた子を見守っており、その真うしろに北欧の夏至の太陽が輝いていた。それはいつも見るかわいげのないカラスと違って、光の鳥となっていた。

七月。水鳥を見に訪れた海岸は海水浴場になっていたが、人影はまばらだった。ひっそりと人々は声をたてずにいた。

海岸に沿った林の中の小径をたどる。少し沖のほうを時折り夏の観光船が通り、やがて波が強く打ち寄せてきて、また静まる。ただ波の打つ音、風に木々の葉がふれあう音、鳥の声が透明な光の中にある。

林の中に人びとの小さな「夏の小屋」が点在し、その一軒から、

「泳ぎましょうよ!」

ふいに若い女の声が、澄んだ空気をふるわせて響いた。人の声がなつかしい。だがその後は、何の声も人影もあらわれず静まりかえる。岩の上で眠るウミアイサの親子を見ながら、水辺の光の中を私はひとり歩いていった。

十一月。鳥たちは南に去り、長く暗い季節が訪れかけていた。人びとは失われたなつかしい光を取り戻そうと、美しいキャンドルを部屋の窓々に赤く灯した。

夏たっぷりと貯めこんだドングリを冬にとりだすリスのように、私も夏貯蔵したスオミ(フィンランド)の透明な光と鳥の思い出を、少しずつ書きはじめていた。

                    (ほん・コミニケート 1991年3月号)



日本も今、光の季節の中にいます。やわらかな、まろやかな、あたたかな光。春爛漫の頃の情景はけだるい光にくるまれて見えます。それは北欧にはありません。

あの透明な光、もうすぐ私はその光と鳥に会いに行きます。 (2006.5.6)



 

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